仕事を自由にする思考法
人は何かを決めたり判断したりするとは、「好き嫌い」「良し悪し」を同時に考えるのではないだろうか。「好きだけど身体に悪いからやめておく」「嫌だけどやらないといけないからやる」誰しもが2つの価値観の間で揺れ動いて、バランスをとりながら生きている。しかし面白いのは好きや嫌いのあとには必ず「でも・・・」と続く、まるで「好き嫌い>良し悪し」という構図が出来上がっているように。

すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法 (文春e-book)
- 作者: 楠木建
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しかし、その良し悪しは本当に(良い」のだろうか?現代ではあちこちで頻発している「炎上」や「公開処刑」は、人々の思う「良し悪し(正義感・倫理感)」を基準に、そこから逸脱した者を断罪し祭り上げる偏った現象ではないだろうか。人の好み(好き嫌い)と捉えたら、このような過激なことにはならないはずである。
自由なはずなのに自由でないような、今の社会にそこはかとない窮屈さを感じているならば、ぜひ上記の本を読んでいただきたい。「好き嫌いで生きていてもいいんだ」と心が軽くなっていくはずである。
世の人々は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分かれる。物事の「良し悪し」は氷山の一角であって、水面下には「無数の好き嫌い」が広がっている。
努力を続けるには、それを「努力と思わない」状態に持ち込むのが一番である。努力を「娯楽化」すれば、側から見ればすごい努力でも、自分にとってはたいした努力ではなくなる。
出すぎた杭も、杭は杭である。他とは比べることのできない「余人をもって代えがたい」存在こそが本物のプロである。
「好き嫌い」とは何か
好き嫌いとは「良し悪し」で割り切れないもののことである。例えば近代社会における「民主主義」や「言論の自由」といった価値観は、個人的な好き嫌いの範疇を超えた普遍的な場所にある。普遍的な価値観が個別的になっていくと、国や地域や組織の「文化」となる。
文化とは、ある境界の内部で共有された価値観(良し悪し)であり、ローカルなものだ。それをさらに切り分けていくと、個人の好き嫌いになる。つまり「局所化された良し悪し=個人の好き嫌い」だといえる。
これを氷山に例えると、海の上に出ている目に見える部分は「良し悪し」で、時間に遅れてはいけない、殺人はいけないなどといった、広い範囲で社会的合意の上に成り立つ価値観である。しかしそれは氷山の一角に過ぎない。うどんか蕎麦か、蕎麦なら暖かいのか冷たいのか、たぬきかきつねか、天ぷら蕎麦か、薬味はネギか七味かそれとも両方か。水面下には無数の「好き嫌い」が広がっている。この好き嫌いには個人差があり、人によって異なる。
良し悪し族が幅をきかせる社会
世の人々は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分かれる。好き嫌い族にとって、良し悪しは氷山の一角に過ぎない。彼らにとって世の中は好き嫌いの集積である。だから多少気に入らないことがあっても「まぁそれぞれだからいいんじゃない」とやり過ごす。
しかし最近では良し悪し族が幅をきかせてきているように見える。彼らは個人の好みとしか思えないような問題でも「ここがおかしい」「こうならなければならない」と良し悪し基準を持ち出して声高に主張する。
インターネットが発達した事により、行動の自由は増した。しかしその一方で人々は、他人の目に映る良し悪しをこれまで以上に気にするようになった。政治家でもない一般人が、大した根拠のない「コネクトネス」に縛られて、自由に考えたり行動したりできなくなっている。
世の中を成り立たせるためには、価値観の共有は必要である。しかし市場経済や自由主義という「普遍的な価値観」も、水面下では個人の好き嫌いが支えている。そもそも近代以降の思想・制度は個人の意思や選択、行動といった好き嫌いが前提にあるものである。