みなさんこんにちは!
本日は、ビジネスや勉強、スポーツなどでよく耳にする『量質転化』について考えていきたいと思います。
最初に結論なんですが、『ほとんどの人の「量」は「質」に転化しない』という事です。
よくこういう言葉を耳にすることがあります。
「作業量をこなせば、質が上がってくる。だからつべこべ言わずに量をこなせ』
「量をこなすから仕事もうまくいく、だからとにかくやり続けろ」
仕事でも勉強でも、「まずはやってみろ」「とにかくうまくなるまで、文句を言わずにやり続けろ」という根性論がまことしやかに信じられていますが、これははっきり言って間違いです。
「行動量をこなせば、行動の質が向上する」という意味合いで「量が質に転化する(質量転化の法則)」という言葉が使われますが、果たして本当なのでしょうか?
何の「量」をこなすかを見誤ると、質は良くなるどころか反対に悪くなる一方ですので、落とし穴に落ちないように一緒に学んでいきましょう。
目次
- 良質転化の法則
- ・良質転化の勘違い!
- 読書をすればするほどバカになる
- 『自分で考えなくなる』とはどういうことか?
- 「知った気になる」と「できる」は全く違う
- ではまた。See you next time・・・
良質転化の法則
これはドイツの哲学者であるヘーゲルが説いた弁証法の基本三原則の1つで、量から質への転化、またはその逆への転化の法則を指したものです。
「あ〜要するに量をこなし続ければ質も上がってくる話でしょ!」
あながち間違いではありませんが、実はそこまで単純な話でもありません。
量質転化の法則を一言で表すなら
『量は積み重ねると、それ自体が質に変わる」という意味です。
これだけではあまりピンとこないので、受験勉強に例えてみましょう。
受験勉強において、「量」とは何のことでしょうか?みなさんはおそらく勉強量のことだと思っていると思います。
一方で、「質」とは何のことでしょうか?
この答えは、結構難しいですよね。効率の良い勉強法?集中力?
これは、おそらく「質」には勉強した事実も一緒に含まれているのだと思います。
効率の良い勉強法で勉強したという事実。
集中しただけでなく、集中して勉強したという事実。
効率の良い勉強法で、集中して勉強をした。という勉強量となります。
つまり「質」の良い勉強を効率よく集中して「量」を勉強すれば成績は上がる。
「当たり前だろ!そんなこと、それができれば苦労しないよ💢』
・良質転化の勘違い!
何事もそうですが、「量」だけでは「質」に変化しません。
このままだと語弊があり「量質転化の法則」を否定しているようになってしますので、順を追ってみていきましょう。
例えば、あなたが字の練習を続けているとして、誰かが書いた雑な字を何万回も描き続けていたとしましょう。
この場合、字の練習をしているあなたは綺麗な字を書けるようになるでしょうか?
これは、自分の経験談なんですが、私は字が下手くそなことにコンプレックスがありました。
そして、何とか綺麗な字を書けるようになりたいと、自己流で何年も書き続けました。
確かに、自己流でも最初の頃よりは少しはマシな字を書けるようにはなったのですが、それ以降がいくら練習しても上達しませんでした。
この事実を見ても量は質に転化するのでしょうか?
ここで、私がやらなければならなかったのは『練習帳で、綺麗な字の見本を真似ながら「反復練習の量」をこなす』ことだったと思います。
とにかくがむしゃらに、自己流で文字の練習を行うのと、練習帳に沿って美しい文字をなぞりながら毎日練習する。のでは1年後には、どちらが綺麗な字を書けるかは明白です。
おかげ様で私も、綺麗な字の練習帳を購入して、その見本に沿って練習し直したことで、かなり綺麗な字を書けるようになりました。
「普通は最初からそうするだろ?」と思われるかもしれませんが、間違った思い込みは怖いものです。
別のケースで見ても同じことが言えます。
ギターの構え方すらわからないのに毎日触っていても弾けるようにはならない。
ギターが家にあって「弾けるようになりたいと思い」毎日、自己流でさわっいる。
「構え方」もわからずに、ひたすら「音の出し方」を模索している。
仮に、見よう見まねで「構え方」と「弾き方」がわかったとしても、上達するのはかなりの時間を必要とします。
この場合でも、以下の条件であれば、全く違う結果になります。
正しい「構え方」、正しい「音の出し方」、「弾き方」を学んで練習量をこなす。
字の練習の時と同じで、ギターも正しい構え方、音の出し方、弾き方を学び見本に近づくように毎日毎日反復練習をし行動する。
こうすれば「量」によって「質」も向上していきます。
大量のインプットが、全く成長につながらないのは「量質転化の勘違い」のせいです。
良い「質」のインプットを毎日毎日の繰り返しによる「反復運動」の「量」によって成長につなげる。
読書をすればするほどバカになる
読書をたくさんすると頭が良くなる。ということを良く聞きますが、実際のところは「読書量」と「能力」には因果関係はないそうです。
読書によって能力を高める、成長につなげる、には読書の量ではなく、「どのような読書体験をしたか」の方が大切なのです。
読書にも、正しい読書法というものがあります。そして、間違った読書法を繰り返していると、どんどんバカになっていきます。
なぜなら、『自分で考えなくなる』からです。
『自分で考えなくなる』とはどういうことか?
「知っていること」だけが増えると、自分の頭を使わなくなる。
本の楽しさの1つに「知る」ということがあります。だだし「知っているだけ」というものが増えれば増えるほど、自分の頭では考えなくなります。
ちょっとわからなくなると、「誰かが教えてくれるはず」「何かの本に書いてあるはず」という風に、情報を探すことばかりに思考が働いて、「自分の頭で何かを生み出す」ことをやめてしまします。
「知った気になる」と「できる」は全く違う
また、「知った気になっている」という状態は非常に危険で、実際には「できない」のであれば、全く意味はありません。
「私は1つだけ知っていることがある。それは私が「何も知らない」ということを「知っている」ことだ」
賢人ソクラテスでも「自分は何も知らない」、と言っていますから、どう頑張っても私はソクラテスよりも賢くはないので、私は何も知らないのです。これが「無知の知」です。
「知らないということを知らない」ことに気がつかないとどんどん、情報コレクターや批評家が生まれていってしまいます。
読めば読むほど、調べれば調べるほど、自分は「何でも知っている」という思い込みと実力に差が開いていき、思考力や読解力が低下していきます。
だからこそ、正しい読書法を学んで、読めば読むほど成長できる読書をしましょう。
ここまで読むと「では、読書なんて時間の無駄じゃないの?」と思う方もいるかもしれませんが、そいう話ではなく「正しい読書法を学ぶべし」といことを意味しています。
読解力や理解力を高めながら、読書スピードも高めていき、なおかつ読書で得た知識を自身の血肉に変えるような、質の高い読書を繰り返して身につけましょう。
これが、「量」が「質」に変わることだと思います。
ではまた。See you next time・・・